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【12杯目】蔵の中で、黒い豆は目を覚ました

■ 蔵三(くらぞう)

江戸時代の終わり頃、栃木県栃木市で生まれた喋る猫。明治の文明開化の折に初めて珈琲を口にし、その美味しさに感激して喋れるようになった。それ以来、珈琲の魅力に取り憑かれ、豆・焙煎・淹れ方まで何でも知っている。落ち着いた古風な口調で、珈琲のことを優しく教えてくれる。


■ 美里(みさと)

栃木市に住む20代のOL。仕事に少し疲れ気味だったある日、喋る猫の蔵三と出会い、珈琲の美味しさと、珈琲のある暮らしを知る。一杯の珈琲で気持ちが前向きになることを実感し、今では「もっと珈琲を知りたい」と蔵三に教わっている。


Illustration by 小日向真芽 様

 

最初のお話はこちら▶「はじめに

前回のお話はこちら▶「川の町で、珈琲は待っていた


蔵の猫、珈琲の時間。

12杯目


蔵の中で、黒い豆は目を覚ました


※この物語はフィクションです。登場する店は実在しません。



巴波川の朝は、音から始まる。

ゆるやかな水の流れ。 舟底が岸に触れる、低い木の音。

積み荷を下ろす人々の掛け声。


美里は、静かに言った。

美里 「……蔵三。 あの川が、そんなに賑やかだったなんて、想像できない」

蔵三は、目を細める。

蔵三 「賑やか、というよりもな。 “動いておった”のじゃ。 町も、人も、時代も」

川から届くもの 江戸からの船は、 布や砂糖、酒だけでなく、 まだ名も知られていない品を運んできた。

油屋の主は、 それらをすぐには売らなかった。

蔵三 「売れるかどうかより、 “面白いかどうか”を大事にする人でな」

美里 「大胆だね」

蔵三 「無鉄砲とも言える」


蔵という場所

巴波川に面した油屋の蔵は、 厚い土壁と重たい扉を持っていた。

中はひんやりと静かで、 外の喧騒が、遠くに聞こえる。

そこに、黒く硬い豆が運び込まれた。

美里 「まだ“珈琲豆”とは呼ばれてなかったんだよね」

蔵三 「異国の豆、とだけ言われておった」

袋を開けても、 強い香りはない。

ただ、硬く、重い。


油屋の決断

ある日、江戸の船商人が言った。

「向こうでは、これを煎って飲むらしい」

油屋の主は、 しばらく豆を見つめ、 こう言った。

「ならば、やってみよう」

売れる保証もない。 味も分からない。 だが、試す。

それが、油屋だった。


最初の焙煎

炭を起こす。 鉄の器に、豆を入れる。

ぱち、と小さな音。 やがて、 ぱちぱち、と弾け始める。

蔵の中に、 甘く、焦げるような香りが広がった。

蔵三 「それはな、 それまで嗅いだことのない匂いじゃった」

巴波川の水音と、 焙煎の弾ける音が重なる。

外では、荷を運ぶ人の足音。 中では、 誰もが黙って立ち尽くす。


黒い液体

挽き、湯を注ぐ。 黒い液体が、器に満ちる。

油屋の主が、 まず一口。 顔をしかめるかと思えば、 静かに息を吐いた。

「……面白い」

それだけだった。

誰も見ていない隙に、 蔵三は、器の縁を舐めた。

苦い。 だが、妙に静かになる。

蔵三 「急がせぬ味じゃった」

美里 「急がせない……」

蔵三 「川は流れておるのに、 蔵の中だけ、時間がゆっくりになった」


蔵で育つということ

油屋の主は言った。

「すぐ売るものではないな。 蔵で、様子を見よう」

分からないものを、 すぐに判断しない。

売れないからと、 切り捨てない。

蔵は、 “待つ場所”だった。


今につながるもの

美里は、静かにカップを持ち上げる。

美里 「だから、“蔵の豆”なんだね」

蔵三は、小さくうなずいた。

蔵三 「豆も、人も、 急がせると味を失う」



美里は、ふと思い出したように聞く。

美里 「その珈琲は…… 町に広まったの?」

蔵三は、少しだけ遠くを見る。

蔵三 「広まるまでには、 もう少し時間がいる」


■蔵三からのひとことまとめ

・巴波川は、江戸から文化を運んできた

・油屋は、珍しいものをすぐに判断しなかった

・珈琲豆は最初、名も知られぬ異国の豆だった

・焙煎は、蔵の中で静かに始まった

・蔵は「待つ」ための場所である



蔵三 「良いものはな、 急いで広がらぬ。 静かに、染みていくのじゃ」

今日の一杯が、 あなたの暮らしにそっと寄り添いますように。


次回からは、蔵三のルーツに迫ります。

13話は、川と蔵と、時間の積もり方

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